No30 杉安と福島 02/09/22

杉安と福島を覚えていますか
杉安は、一っ瀬橋のだいぶ上流、福島は、すぐ下流にあります
今日は、ある年配の人から聞いたはなしをします
杉安の製材所につとめていたそうです
約50から70年まえの話のようです
まだダムができる前です
当時杉安は宮崎経済のエンジンだったようです
杉安線は、そのために日豊本線よりも早く開通しました
杉安と福島港を結ぶ動脈として活躍したようです
それだけの価値が、あったのでしょう
当時は、杉安ダムはありません
奥山でとれた木材は、川の近くほ積まれ刻印がされました
そして台風が、くると木材をとめてあった紐をきって川に流します
それを川下の杉安で回収したそうです
台風の日が、1年の収穫時だったのです
木材の一部は、佐土原まで流れていたようです
それを回収するためにたくさんの山師さんが、佐土原まで出たそうです
佐土原の人もそれをとるために川にはいったようです
しかし危ないことをするものです
水上の丸太の上をすいすいと歩く職人が、たくさんいたそうです
台風の日には、握り飯をたくさん作り丸太の上の鳶に手渡したそうです
当時の人は、大水のときでも平気で泳げるほど泳ぎうまかったようです
そうやってあつめられた木材は、製材されて、福島港まで汽車で運ばれました
だから、福島は、当時大変な賑わいだったようです
また杉安も杉安峡に館舟が出るほどだったようです
つまり、宮崎の大きな現金収入は、米良の木材からきていたのです
木材は、江戸時代から重要な輸出品だったようです
福島から、木材を輸送する人たちが、いました
嵐で、積荷を流し切腹させられたという話が、のこっています
この流通経路は、ダムの建設と日向大橋の建設で幕をとじてしまいます
ダムで、木材が、流せなくなりました
輸送が、車になりました
必然的に杉安線の必要がなくなり廃線となったわけです
たくさんのメリットを与えてくれたダムと橋です
でも、大きな経済的変化をもたらしたようです
これ以降の経済の中心は、農業にかわっていきます
ダムのおかげで、かなりの農耕地が、増えたようです
生活は、安定したのでしょう
しかし、農産物は、自給自足の面があり商品としてみると、適しません
だから、ここで、宮崎は、自給自足の経済に入ったと考えられます
もともと、佐土原は、商業都市ではなかったのでしょうか
木材産業の停滞とともに佐土原の経済も停滞したのでは、ないでしょうか
福島も杉安も寂びれていきました
流通の動脈としての1ッ瀬川の役割は、おわったようです
宮崎県民は、繁栄よりも安定を選んだのでしょうか