杉安

   いつも以上に一っ瀬川が、にごっていました
   原因を調査に水上に出かけました
    ダムの放水中でした
    途中に何箇所か砂の採取場がありました
    驚いたのは、今3箇所で橋の建設が、進行中でした
    子供のころの記憶では、もっと大きなダムだった気がします
これだけの水を放出すれば、にごるのも当たり前です
でも、大雨や台風の時は、昔も水が、にごったと記憶しています
魚の減った理由は、他にもあるのではないでしょうか
延岡の五ヶ瀬川では、今もあゆが、登っています
どこが、違うのでしょう
ダムのメリットといえば第一に電力が、挙げられます
発電所は、意外とダムよりずいぶん川上にありました
水量もそれほど多いところではありませんでした
もっとも川底からずいぶん高いところにありました
満水時には、いっぱいになるのかもしれません
遠目のせいか、小さくみえました
どれだけの人に電力を供給しているのでしょう
   杉安峡が、「日向の嵐山」と呼ばれていたころの写真が、見つかりました
   屋形船が写っています
   杉安橋の近くだったのですね
   今よりも川の水量が多いように思えませんか
   昭和初期のことだそうです
杉安と福島を覚えていますか
杉安は、一っ瀬橋のだいぶ上流、福島は、すぐ下流にあります
今日は、ある年配の人から聞いたはなしをします
杉安の製材所につとめていたそうです
約50から70年まえの話のようです
まだダムができる前です
当時杉安は宮崎経済のエンジンだったようです
杉安線は、そのために日豊本線よりも早く開通しました
杉安と福島港を結ぶ動脈として活躍したようです
それだけの価値が、あったのでしょう
当時は、杉安ダムはありません
奥山でとれた木材は、川の近くほ積まれ刻印がされました
そして台風が、くると木材をとめてあった紐をきって川に流します
それを川下の杉安で回収したそうです
台風の日が、1年の収穫時だったのです
木材の一部は、佐土原まで流れていたようです
それを回収するためにたくさんの山師さんが、佐土原まで出たそうです
佐土原の人もそれをとるために川にはいったようです
しかし危ないことをするものです
水上の丸太の上をすいすいと歩く職人が、たくさんいたそうです
台風の日には、握り飯をたくさん作り丸太の上の鳶に手渡したそうです
当時の人は、大水のときでも平気で泳げるほど泳ぎうまかったようです
そうやってあつめられた木材は、製材されて、福島港まで汽車で運ばれました
だから、福島は、当時大変な賑わいだったようです
また杉安も杉安峡に館舟が出るほどだったようです
つまり、宮崎の大きな現金収入は、米良の木材からきていたのです
木材は、江戸時代から重要な輸出品だったようです
福島から、木材を輸送する人たちが、いました
嵐で、積荷を流し切腹させられたという話が、のこっています
この流通経路は、ダムの建設と日向大橋の建設で幕をとじてしまいます