佐土原と一ッ瀬川
No15 佐土原と一ッ瀬川 F一ッ瀬川があったからこそ by ひょうきんたろ 02/08/25
No14 佐土原と一ッ瀬川 Eダム建設 +−の側面 by ひょうきんたろ 02/08/18
No13 佐土原と一ッ瀬川 D豊な川を復活させれば by ひょうきんたろ 02/08/11
No12 佐土原と一ッ瀬川 C繁栄の源泉一ッ瀬川 by ひょうきんたろ 02/08/04
No11 佐土原と一ッ瀬川 B農薬や排水で殺された生物達 byひょうきんたろ 07/21
No10 佐土原と一ッ瀬川 Aダム建設以降の激変 by ひょうきんたろ02/07/14
No9 佐土原と一ッ瀬川 @ 豊かな恵み by ひょうきんたろ 02/06/30
No8 佐土原と一ッ瀬川 エピローグ by ひょうきんたろ 02/06/30
先日、佐土原から広瀬までタクシーに乗りました
私と同年輩のタクシーの運転手さんと、子ども時代の話しになりました
一ッ瀬川にダムができる前は、川の水が本当にきれいだった
コイやフナなどの魚がたくさん取れたのに、今はまったくだめだ
一ッ瀬ダムは、発電どころか何の役にもたっていない
などと、一ッ瀬ダムの悪口をさんざ言われました
話しを聞くうち、一ッ瀬川での色々が次々に思い出されました
そして長年の疑問が自分の心の中でどんどん解けてきました
コメント
さあ、ひょうきんたろさんの心には何が去来したのでしょう
楽しみですね。今週から連載します
子どもの頃
「現王島」の橋の上から、雨の後の濁流に糸を垂らし、ウナギ釣りをしたり
「二ツ建」まで自転車を漕いでコイ釣りをしたことを思い出しました
低学年だったmasaさんでも、30センチくらいのコイを何度か釣り上げていました
夏休みに、いとこたちの住む上流の杉安峡で、アユやイワナを釣りをしました
河原で虫眼鏡で火を起こし、川原の石で作ったかまどで、くし焼きにしたアユを焼き、 青空の下で食べました
下流の広瀬の河口では、夏にしじみを取り、秋口には「チン」釣りをしていました
一ッ瀬川には産業としての漁業も成立していたと思います
同級生のsada君の亡くなったお父さんは、漁業をされていました
川には時折小さな船が往来し、投げ網して魚を取る人もいました
漁業組合もしっかりしていました
魚釣りをする僕達子どもでも、時々回ってくる漁業組合のおじさんに、 「カンサツ(監札?)がねえと釣りはできんど」と言われ、 木製の札を何百円か出して買って、釣りをしていたものです
一ッ瀬川は、子どもにも大人にとっても豊かな恵みの川でした
コメント
一ッ瀬川は、みんなにそれぞれの思い出を残しているのですね
大水の後には、田に大きなコイが良く入っていたものです
上り子採りなどは楽しい思い出です
まだまだ話は続きます。請う御期待
一ッ瀬ダムができたのは、小学校の低学年のころでしょうか
水の色が一度に変わったことを思い出しました
深い青色だった水が、茶色に変わったのです
上流に作られたダムのために、大量の土砂が流れてきたためでした
現王島のあたりで、三財川と一ッ瀬川が合流します
三財川の水の緑色、一ッ瀬川の水は茶色
それが現王島の先で混じりあうようになりました
一ッ瀬川の上流の杉安峡は、ダムができる前には、清流として有名でした
夏になると、宮崎交通は杉安峡行きの納涼バスを出していました
でもダムが出来てからは、川の水が濁り、渓流と言えなくなました
夏場の納涼船もなくなりました
小学校低学年のころ、僕たち兄弟の無上の喜びは、
夏休みの杉安で、アユやイワナ釣りをすることでした
ダムができてから、杉安峡からイワナもアユもいなくなりました
いとこたちは、仲の良い友人を失ったように寂しそうでした
コメント
いとこさん達の寂しそうな顔が目に浮かびますね
時代の流れには、勝てないのでしょうか
まだ続きます。話は、どう展開するのでしょう
魚が取れなくなった理由は、もちろんダムだけではないです
田んぼで農薬を使うようになって、田んぼにいたたくさんの生物がいなくなりました
ある日突然、田んぼの溝で、たくさんのフナやコイが死んで浮いていました
その後には、ウナギ、最後にはどじょうまで死んでしまいました
農薬のために、タガメや水すまし、トンボやメダカまで
ありとあらゆる田んぼにいた生き物が殺されたのです
農薬で汚染された水は、一ッ瀬川や三財川に流れます
川で釣った魚は食えないよと親から言われるようになりました
穂北の製紙工場の下流で取れた魚は食うなと聞いてたのは、そのちょっと前からです
僕たちの身近なところで、一ッ瀬川の自然破壊が、平気で進んでいったのです
田んぼや川に住む、魚や虫を相手に遊んできた僕にとって
仲の良い友だちが殺されたかのように感じたショッキングな出来事でした
コメント
そうですね。蚊さえいなくなっています
一時期ゴルフ場の除草剤、殺虫剤が問題になったことも有りました
その後あの話は、どうなったのでしょう
-- 続く --
歴史的にも、一ッ瀬川こそが佐土原の中心だったのだと確信しました
魚や貝など水産資源を食卓に供給し、
佐土原人の生命の源泉だったに違いありません
その証拠は
子どものころ、川で取れた鯉の味噌汁「こいこく」を食べていました
川で取れたウナギの蒲焼き、しじみの味噌汁、ハゼのから揚げも食べていました
また、一ッ瀬川は、人の交流、物資の運搬の中心だったに違いないです
一ッ瀬川を佐土原の中心と考えれば、昔からの次のような疑問が氷解していきます
その一、なぜ川向こうの富田や入田と佐土原はいっしょの藩だったのか?
その二、こんな片田舎のちっぽけな佐土原が、昔からなぜ長く栄えてきたのか?
その三、佐土原は日向の中心というが、大きな道もないのに、なぜそんなに便利だったのか?
永年の疑問が、次々に解けてきたような気になります
佐土原付近の地図を見て下さい
旧佐土原藩を構成した地区のうち、 佐土原、広瀬、那珂、三財、三納、富田、新田は、
一ッ瀬川や、その支流の三財川や石崎川の流域にあります
戦国時代、山上にあった佐土原城は一ッ瀬川の見えるところにあるそうです
また、現王島が歴史上佐土原の重要な地区だった
との管理人さんの文章の意味もよく理解できます
つまり三財川を利用して、上流の三財や三納から物資を運ぶ
一ッ瀬川を利用して、下流の広瀬から海からの物資を運ぶ
そして現王島で下ろせば、お城はすぐ近くです
コメント
なるほどすごい推理ですね
祖父の時代には、今の福島地区に港があり、繁栄していたそうです
色々調べてみると面白いかもしれませんね
-- 続く --
豊かだった一ッ瀬川を復活させれば、豊かな佐土原が戻ってくるかもしれない
佐土原の繁栄は、一ッ瀬川の豊かさに負うところが多かったに違いない
ならば、一ッ瀬川の清流を復活させれば
佐土原の繁栄は戻ってくるかもしれないと考えました
無理な議論かもしれません
ダムを取り壊し、農業には農薬を使わないようにする
魚の住み易い堤防にすれば、一ッ瀬川の清流は戻ってくるかもしれません
ひょっとして科学が更に発達すれば、
一ッ瀬川の清流を復活させる方法が見つかるかもしれません
科学の進歩に期待するのは、甘いかもしれません
でも、歴史があり、豊かな自然に恵まれた佐土原の再興を
心から期待したいと思います
コメント
本当ですね。同感です
多くの人が、そう考えれば、実現可能かも知れませんね
これから私達が、やらなければいけないことでしょうか
-- 続く --
昔の思い出を色々な例をあげて話しました
そして独断と推測でしゃべりました
ところが大切なことが抜けていました
僕は今、佐土原に住んでいません
昔は別にして、今の一ッ瀬川がどうなっているかよく知らないのです
今の一ッ瀬川が、タクシーの運転手さんの言う通りなのかが確認できていませんでした
現状を知らずして、何を言うかと言われる方もいらっしゃると思います (^^;;
厳密に言うとダムによる影響についての環境評価が必要です
つまりダム建設以前と以後で、流域の人々の生活や環境が具体的にどう変わったか
ダム以前と以後での数字で実証できないと、単なる推測になります
例えば、魚獲高の推移や漁業従事者の推移などを示す必要はあるでしょう
それから、ダムのマイナスの側面ばかりを強調していると、ご批判があるかもしれません
考えればダム以前によくあった現王島付近での氾濫が、今は聞きません
ダムは一ッ瀬川の治水に貢献していると言われるかもしれません
コメント
難しいですね
+−の+が大きくなるようにダムを改善できないものでしょうか
技術の進んだ現代です。多少お金がかかっても検討する価値がないでしょうか
たとえば排水の位置を変えるとか、浄化装置をつけるとか???
-- 続く --
僕が言いたかったことは、
一ッ瀬川があったからこそ、昔の佐土原は栄えていたに違いない
(旧佐土原藩域も含めた広い意味での佐土原)
一ッ瀬川が元に戻れば、佐土原地区も再び発展するかもしれないということです
昔と変わってしまった一ッ瀬川の具体的な例示の部分が長くなり
一ッ瀬川が中心の話しになりました
でも、「なぜ佐土原は歴史があるのか」
という佐土原の発展の原因捜しからはじまった文章なのです
豊かな自然に恵まれた佐土原の再興を心から期待したいと思います
コメント
つい自然を忘れがちですよね
懐かし一ッ瀬川をだいぶ思い出しました
皆のふるさとを思う心が集まればかなえられるのではないでしょうか
-- 終わり --