歩み3
No39 ゼンリンと案内図 02/11/24 No38 HPアドレスの変更 02/11/17 No37 サノハラノミコト 02/11/10 No36 まいづる19号 02/11/03 No35 うたたね 02/10/27 No34 またもやクラッシュ 02/10/20 No33 金丸堰 02/10/14
No32 掲示板の引越しだよ 02/10/06 No31 100年 02/09/28
No30 杉安と福島 02/09/22
No39 ゼンリンと案内図 02/11/24
なかなか完成しません
でも、とりあえずアップしました
最上部のインデックスからマップを選んでください
ゼンリンと案内図のリンクがあります
こんなに大変なことなら手をつけなかったのですが・・・
たいした地図じゃないと思うでしょう
でも、けっこう苦労をしているのですよ
一番難しかったのは、地図の大きさを決めること
次にその解像度を決めることです
いくらでも大きくきれいにすることは、できます
しかし、それでは、スピードが、落ちてしまいます
何度か作り直して、今回の形に落ち着きました
まだ、ほんの一部しか完成していません
それでも、アップするのに25分くらいかかりました
一度には、無理ですので、すこしずつアップしたいと思います
あわせて改善もしていくつもりです
何か、いい方法や、気づいた点があれば、教えてください
No38 HPアドレスの変更 02/11/17
このホームページのアドレスが、変わりました
新アドレスは, http://o-yasu.hp.infoseek.co.jp です
半年間は,前のアドレスでも転送してくれるそうです
このページを開いたら,お気に入りに再度登録してもらえせんか??
もちろん、強制は,いたしませんが・・・・・・
先日検索に掛かるように,依頼したばかりでした
また、最初から遣り直しです
どういうわけか、カウンターもクリアされました
1年目がやっと終わると思っていたやさきでした
ちょっと残念な気もします
心機一転がんばりたいとおもいます
幸いデーターには、異常がないようです
コンピューター修理に時間を取られなくなりました
あいた時間を地図つくりに使っています
なかなか難しいです
でも、よくできたフリーソフトが、出回っています
使いこなすまで大変ですが、使えば使うほど,すばらしさに感心しますl
こんなソフトを作れる人は,本当の天才ですね
とりあえず,2本の地図をアップしました
どうも、適当な地図が,ありません
次は,ゼンリンを加工してアップできたらと思っています
これくらいのことが、フリーソフトでできます
すごいですね
目に痛い
夕焼け空の
山際を
どこへかえるか
鳥たちの行く
No37 サノハラノミコト 02/11/10
知っていましたか ???
佐野原尊と書くそうです
神武天皇の幼少の名前だそうです
その佐野原神社へ、いってきました
それほど、大きな社では、ありませんでした
大きな、木が、たくさん生えていました
廻りは、畑に囲まれていました
神武様が、生まれたところと知っているからでしょうか
なんとなくふさわしい所に感じられました
ちょうど、西都古墳群が、ある場所を、小さくした感じです
こんな環境が、当時は、住みやすかったのでしょう
なかなか見つけられませんでした
最近、219号線の春田バイパスが、完成しました
このあたりは、宮崎と、西都のよいベットタウンになっています
さらに、高速道路が、完成すれば、西都インターも近いです
かなり、山の上まで、団地化が、進んでいます
佐中を過ぎて、バイパスをくぐり、道なりに小山を登っていきました
ほぼ、一番高い所まで来たところに木製の小さな標識を見つけました
車一台が、やっと通れる位のちいさな道をおそるおそる走りました
何度か曲がりましたが、後は、ほぼ、一本道でした
どうして、佐土原の人は、このような文化遺産をもっと公表しないのでしょう
もっとも人が、あまりこないから、この雰囲気が、残せているのでしょう
佐土原の人柄が、これを残したと言えるかもしれません
どちらが、よいのか私には、わかりません
だだ、子供たちには、佐土原をもっと誇りに思ってほしいです
そのためにも、できるだけ伝えていきたいなと思いました
私たちは、ほとんど、何も知らずに大きくなってしまいました
それが、とても残念に思えました
雨上がり
高き青空
澄みたるを
胸いっぱいに
深呼吸かな
ところで、今日は、少しハッピです
やっと機械が、直りました
原因は、メモリーでした
詳しい話は,研究発表で近いうちにしたいと思います
No36 まいづる19号 02/11/03
どうにも、直らない
機械の調子は,戻りません
今日は、もう考えないことにしました
佐土原の古い地図 が、手に入ったので、アップします
これをベースに色々地図を作っていきたいと思います
今,グラフィックの勉強中です
現在の地図と変わっているのに驚きました
100年以上たっているですから当然かもしれません
ところで,「まいづるの19号」が、出ていることを気づきましたか
今回も面白い記事が、でていました
そのうちのひとつに神武天皇の生まれた場所が、でていました
まえに神武様の産着を埋めた場所の話をしました
現王の日吉神社です。覚えていますか
それによると、天皇の血筋は、外国からの優れた稲作の伝承者だそうです
高千穂が、1代目で佐土原が、3世代目だそうです
もちろんそれは,神武天皇のことです
ちなみに2代目が、西都だそうです
神武天皇の生まれた場所は、佐野原神社だそうです
佐土原中学校の南の方のようです
すごいですね
こんな近くなら、ぜひ行ってみたいと思います
みなさんも「まいづる」を読んで、想像をたくましくしてみませんか
また佐野原について、レポートします
寂びしきは
秋とともにや
めぐりくる
コンピューターの
寿命かな
No35 うたたね 02/10/27
古いマザーボードを持出してつけました
クラッシュの原因が、わかりません
新しいマザーボードが、原因では?と、修理に出しました
なんと1月もかかるそうです
しかも、直るかどうかわかりません
それでも、一縷の望みをかけて送り出しました
*** はやく、かえってこいよ 〜 !!! ***
それで、また古いボードにお世話になっているわけです
ほとんどの、古い関係するCDを捨てていました
それで、半分の機能しか引き出せません
コンピューターに関する限りなんでも、捨てないことが大切のようです
新しいものを、かえる経済力のある方は別かもしれません・・・
何とかホームページを維持する機能は、確保しました
しばらくは、これで、辛抱するつもりです
えらいでしょう?。我慢するのには、なれています
それが、唯一の取り柄と自負しています
それでも、すこし、設定で寝不足が、つづきました
やはり、もう年です
昼休みのうたたねが、とても、気持ち良いです
皆さんも、木陰で、昼寝を試されては??
今回も、少しになりましたが、アップしました
どこまでも
青き大空
流れゆく
緑の風に
うたたねの昼
No34 またもやクラッシュ 02/10/20
物が、壊れることを、クラッシュと言うらしい
実は、またもや私の機械(コンピューター)が、壊れました
たびたび壊れるので、クラッシュなる言葉を覚えてしまいました
この1週間は、毎日1時間以上修理にいそしみました
しかしもう、我慢にも限界です
明日電気屋さんに持っていくつもりです
なおるでしょうか・・・・?
新しい機械を買うべきでしょうか・・・?
問題は、ぺージのアップが、できません
画像は、もとより、メールも受け取れないしまつ
困りました・・・
ともかくもテキストだけでもと、アップしました
なさけない・・・・・
機械の直り次第いくらか乗せたいと思います
すみません・・・・
若き日の
熱き情熱
今いずこ
秋風の中
ひとりたたづむ
夕焼けに
ひとつふたつと
青白き
街灯ともる
秋のまちかど
No33 金丸堰 02/10/14
100年後を考えて生活したことが、ありますか
それと金丸用水を覚えていますか
初耳の人は、 No28 金丸用水 02/09/08を見てください
気にかけていると見つかるものです
今までに何回も通った道でした
そこに金丸用水の石碑が、建っていました
田島にありました
猫に小判とは、良く言ったものです
最近佐土原の歴史に興味を持っているせいでしょう
ふと、気づいて文字を読んでみました
そして、そこに書かれた地図を頼りに金丸堰に行ってきました
堰とは、川をせき止めて、水を脇に流すようにしたもののようです
一ッ瀬川をせき止めて潅漑に利用したのが、金丸堰です
思いのほか、立派なものでした
近くに金丸氏らの業績を称える石碑や写真等が展示してありました
それによると、金丸氏は、江戸時代の人で、柳瀬生まれだそうです
名を惣八といったそうです
若き日の写真が、ありました。立派な体格の人物のようでした
最初の完成が、明治4年(1870)のことだったそうです
初め、4キロの長さの用水でした
黒生野、柳瀬の40haを潅漑しました
そして、この堰からの水は、一ッ瀬川の両サイドに伸びました
現在では、1、006haに水を供給しているそうです
今も伸びつづけています
実に132年を経てもまだ成長しているのです
金丸氏は、自分の生まれた場所の貧困を救うために堰を造ったそうです
今の政治家は、100年先を見とうせるのでしょうか
私たちは、何のために生まれてきたのでしょうか
考えさせられる一日でした
肌寒い
朝風吹けば
おくれじと
競うがごとく
秋の花々
No32 掲示板の引越しだよ 02/10/06
引越ししました
最初の書込みが「kazu&masa」さんで 2002/03/09のことでした
最後は「ひょうきんたろ」さんで 2002/07/11のことでした
全部で30くらいの書き込みがあったようです
約半年で30ですから月に5件くらいの書込みのようです
でも大半は、前述の2人が、投稿してくれたようです
特に「ひょうきんたろう」さんが、がんばってくれたようです
本当にありがとうございました
これからもよろしくお願いしますね
今度の掲示板は、動きが、軽いようです
それに自分の投稿した分は、いつでも消せるようです
気楽に書き込みが、できそうですね
ヘルプも、ついています
初心者には、ありがたいですね
もう少し多くの人に参加してもらうために検索にかかるようにしようかとも思っています
まだ早いでしょうか?????
それから、ちょっと話は、変わります
今まで、できるだけ日曜日の夜にページをアップしいました
考えてみると資料集めが、日曜日になります
ちょっと、時間が、足りないようです
これからは、あいた時間にアップさせてもらおうとおもいます
かってながら、よろしくお願いします
長久の
流れを保つ
川たちよ
人の造りし
流れはいかに
No31 100年 02/09/28
100年は、長いと思いますか
実は、写真集が、出ています
県立図書館で見つけました
地域別に100年を写真でつずった本です
宮崎もいくつかの地域に分けて出版されていました
面白い写真をいくつか見つけました
今回は、ひょうきんぼさんが、言っていた杉安峡の屋形船の写真
一ッ瀬大橋、日向大橋の今昔の写真をのせました
白黒の写真です
画質もそれほどよくありません
それでも、なにか当時を偲ばせてくれます
他にも佐土原にちなんだものがありました
少しづつ掲載していくつもりです
かってに乗せてよいものかよくわかりません
でも営利目的ではありませんのでお許しを・・・・・
というわけでお楽しみに
このホームページの目的の一つは、10年間資料を集めることです
色々と参考になります
一通り目を通して思いました
この100年は、佐土原にとってあまりよい年月では、なかったのかなと
佐土原に関するものが、あまり多くありませんでした
宮崎県の一地方になっていました
これだけの歴史がありながらと、さびしい思いをしました
このままで、終わらないためにもなにか残しておきたいですね
青空に
急ぐがごとく
夏雲の
秋を呼びつつ
流れ行くかな
No30 杉安と福島 02/09/22
杉安と福島を覚えていますか
杉安は、一っ瀬橋のだいぶ上流、福島は、すぐ下流にあります
今日は、ある年配の人から聞いたはなしをします
杉安の製材所につとめていたそうです
約50から70年まえの話のようです
まだダムができる前です
当時杉安は宮崎経済のエンジンだったようです
杉安線は、そのために日豊本線よりも早く開通しました
杉安と福島港を結ぶ動脈として活躍したようです
それだけの価値が、あったのでしょう
当時は、杉安ダムはありません
奥山でとれた木材は、川の近くほ積まれ刻印がされました
そして台風が、くると木材をとめてあった紐をきって川に流します
それを川下の杉安で回収したそうです
台風の日が、1年の収穫時だったのです
木材の一部は、佐土原まで流れていたようです
それを回収するためにたくさんの山師さんが、佐土原まで出たそうです
佐土原の人もそれをとるために川にはいったようです
しかし危ないことをするものです
水上の丸太の上をすいすいと歩く職人が、たくさんいたそうです
台風の日には、握り飯をたくさん作り丸太の上の鳶に手渡したそうです
当時の人は、大水のときでも平気で泳げるほど泳ぎうまかったようです
そうやってあつめられた木材は、製材されて、福島港まで汽車で運ばれました
だから、福島は、当時大変な賑わいだったようです
また杉安も杉安峡に館舟が出るほどだったようです
つまり、宮崎の大きな現金収入は、米良の木材からきていたのです
木材は、江戸時代から重要な輸出品だったようです
福島から、木材を輸送する人たちが、いました
嵐で、積荷を流し切腹させられたという話が、のこっています
この流通経路は、ダムの建設と日向大橋の建設で幕をとじてしまいます
ダムで、木材が、流せなくなりました
輸送が、車になりました
必然的に杉安線の必要がなくなり廃線となったわけです
たくさんのメリットを与えてくれたダムと橋です
でも、大きな経済的変化をもたらしたようです
これ以降の経済の中心は、農業にかわっていきます
ダムのおかげで、かなりの農耕地が、増えたようです
生活は、安定したのでしょう
しかし、農産物は、自給自足の面があり商品としてみると、適しません
だから、ここで、宮崎は、自給自足の経済に入ったと考えられます
もともと、佐土原は、商業都市ではなかったのでしょうか
木材産業の停滞とともに佐土原の経済も停滞したのでは、ないでしょうか
福島も杉安も寂びれていきました
流通の動脈としての1ッ瀬川の役割は、おわったようです
宮崎県民は、繁栄よりも安定を選んだのでしょうか
宮崎が、古事記や日本書紀に出てくるのは、また違った見方が必要だと思います
古事記、日本書紀が、編纂された当時は、かなりの経済圏があったのだと思います
当時の生活基盤が、何によっていたか想像してみるのも楽しいと思いませんか
埒もない想像の話をしてしまいました
スズ風に
誘われいでし
夏の夜
虫の音運ぶ
秋の足音