ホーム ニュース 季節 広場 ちょこっと 昆虫記 記念写真 つれずれ パズル 研究発表 履歴 年表 マップ 案内図 新掲示板

わいわい広場

メールなどで心にとまる文章を保存することにしました

こちらに御意見をください

No20 佐土原人の大分A by ひょうきんたろ 03/02/3

3、大分は、まとまりがない県?

   大分で、会社の同僚が、大分の人は方言を使わない
、と言うのを聞いて、本当かなと疑問を持ちました
 実際のところ、これは本当のようです
もちろんこれは九州のほかの県との比較の話です
 もう一つ印象に残ったことがあります
 大分の人が、ある時、「大分が好きな大分県人はあまりいない」と言ったのです
大分の人は、大分弁をあまり使わず、大分に愛着を持っていないというのです
 大分県人は、大分に自信がないのかと思いました
が、そうではないく大分が多様であるためだと思うようになりました
 ものの本によりますと、現在の大分県は、江戸時代に、8つの小藩に分立していたのです
府内、臼杵、津久見、佐伯、竹田など細かく藩が分かれていたようです
このあたり宮崎と似ていますが、宮崎県の場合は天領が多かったのです
大分県は独立した8つの藩の直轄領に分かれていました
そのせいか、大分県は言葉も九州各県ほど統一しておらず、
大分県という「まとまり」に違和感を持つ人がまだまだ多いのではないかと推測しています
 大分で、一村一品運動というのが有名です
これも考えてみれば、各地域が多様であればこそできることです
戦国時代に、大友宗麟という殿様がいて、大分を統一していたそうです
遠藤周作の歴史小説「王の挽歌」を読むと、その時代でさえ、
豊後の国では、大友家に対する裏切りや謀反が多かったようです
しかも大友宗麟時代後は、明治まで8つの小藩に分裂していたのです
 言葉が、標準語に近いのもなんとなく理解できます
 津々浦々という言葉がありますが、大分は細かな入り江で海岸は入りくんでいます
陸地も山が多く、細切れの陸地に分かれています
 大分の多様性は、地理的に複雑な地形も関係が深いのではないかと思います

4、大分県人の歩いた後は、草も生えない?

 宮崎では、子どものころによく聞いた言葉です
友達に聞くと、熊本でも、そういうのだそうです
 これは本当だろうかと、今も研究中なので、断言は避けます
 ただ大分県の人は、実直なしゃべり方の人が多いのは間違いないようです
思ったことを、飾らず、照れずに、ずばりと言うのです
しかも、多弁ではないので、誤解されやすいのです
 これは、意地悪というのではなく、性格が悪いわけでもないのです
控えめにしゃべる宮崎県人から見ると、とんでもない気性の激しい人物に見えるかもしれません
人情味ある熊本県人から見ると、そっけなく冷たい人に見えるかもしれません
 大分人がはっきり、(悪く言うと露骨に)ものを言う理由は、大分県人が、実直なせいです
 大分人のこのしゃべり方は、大分の地理とも関係があるのではと思います
大分は、四国や本州に開かれた九州の玄関でもあったに違いありません
九州各県から、あるいは本州四国から来た人たちは、
玄関である大分では、誤解が起きないように、
感情を交えない、直接的なものの言い方をしてきたのではないでしょうか
例えば、駅や港などの雑踏では普通は余談ができないので、 大事なことだけ短く要点だけ言います
これと同じではないかなと思っているところです

5、大分の人は、宮崎に関心がない?

 大分のあちこちでで、宮崎出身と名乗っています
が、なんとなく反応が鈍いです
宮崎に行ったことがない人も、けっこう多いような気もします
 やはり地理的に、海を通じ、関西や四国、山口や本州とつながりが深かったこと
歴史的にも、日向は薩摩と縁が深く、豊後とは縁が薄かったこと
と関係があると思います
 宮崎の人が、「同じ東九州側の県だ」と親近感を持つほどには、
大分県の人は、宮崎には親近感を持っていないようです
 大分からは特急で2時間で博多に行けます
にちりんは、今は宮崎から博多には直接行けず、小倉どまりがほとんどです
 大分は電車で福岡との関係が深まっている事も、これと関係があるのでしょう
大分では、宮崎で聞く、後藤、緒方、津田、酒井、児玉など、子ども時代から聞いてきた姓をよく聞きます
親しみを感じ始めています
これから大分のことを、もっともっと勉強し、好きになっていきたい
宮崎に関心を持つ知人、友人をできるだけ多く作っていきたいと考えています

コメント
うーん、なるほど
こんな県なのですね、大分は
確かにすこし、遠い県の感じがします
でも、ひょうきんぼさんのレポートでずいぶん身近に感じ始めました
東九州道路が、完成すれば、さらに身近な県になるでしょう
いまから、少しずつ勉強していきたいですね

目次

No20 佐土原人の大分A by ひょうきんたろ 03/02/3 No19 佐土原人の大分@ by ひょうきんたろ 03/01/28
No18 佐土原カラノ電話A by ひょうきんたろ 2003年正月 No17 佐土原カラノ電話@ by ひょうきんたろ 2003年正月
No16 王の挽歌 by ひょうきんたろ 02/12/08
No8-15 佐土原と一ッ瀬川  by ひょうきんたろ
No7 佐土原と歴史A 「喜界島と佐土原」 by ひょうきんたろ 02/05/05
No6 佐土原と歴史@ 「島津さんと神武さま」 by ひょうきんたろ 02/04/28
No2-5 「島津奔る」がつなぐ友情の輪  by ひょうきんたろ
No1 こっこの思い出    by masa&kazu  02/03/10

本文

No19 佐土原人の大分@ by ひょうきんたろ 03/01/28

大分について当初頭にあったのは、
1、中学校の修学旅行で行ったお猿の高崎山、血の池地獄の別府温泉
2 他にも仏の里の国東半島、宇佐神宮などの観光地がある
3、大分出身の有名人に慶応大学の創設者の福沢諭吉、大横綱の双葉山がいる
4、山が多く、平地が少ない
この程度の知識でした

今回大分に縁がありました
そして、色々感じることが、ありました

1、大分のうどんがうまいのは、関西の影響かも?

 大分に行ってすぐ、仕事で外出し、行った店は、うどん屋でした
このうどん屋のうまさに驚きました
スープも麺も絶品でした
 このうどん屋だけでなく、大分にはうどん屋が多いことに気付きました
大分はうどん屋が多いだけでなく、当たりはずれがありません
 その後、因幡うどん、鳴門うどんといって関西のうどん屋が多いことに気づきました
また、たこやきや、やきそばなどの関西風の食べ物屋が多いことにも気づきました
そのあたりから、大分は関西の影響が大きいのではと思い出しました

2、大分は、海によって関西や四国と直結している

 大分に来て、しばらくして大分市の東側、海側の佐賀関というところにいきました
徳島まで70分というフェリーの案内文が眼に入りました
そこには、フェリーの発着場があり、
愛媛県三崎というところまで、フェリーが直行していることがわかりました
 その後、地図を見ると、大分県の東側には、別府湾、臼杵湾、佐伯湾など、天然の良港が沢山あります
、そこからそれぞれ、関西四国へフェリーが出ていることがわかりました
 例えば、別府湾からは関西の大都会である神戸・大阪まで、
臼杵湾からは四国の愛媛県八幡浜、
佐伯湾からは四国は高知県の宿毛へ、
それぞれフェリーが出ていました
 また、地図を、豊後水道を真ん中にして見てみました
大分は瀬戸内海の西端で、海を通じて四国や関西に直結しているのです
大分は周防灘をはさんで、山口と眼と鼻の先でもありました
いま思えばあたりまえですが、これにはちょっと驚きました
 大分はリアス式海岸で、津々浦々という言葉がぴったりの海です
宮崎は、一直線の砂浜海岸です
 隣県ながら、海とのつながりは宮崎と大分は全くと言って良いほど違うのです
 その後、実際に大分と関西とのつながりの深さを実感したことをいくつかあげてみます
 大分市内で徳島バスが連なって走っていました
 佐賀関のフェリー乗り場からから上がってきた車の運転手は、関西弁で道を聞いてました
別府にある山、鶴見岳のロープウェイは近鉄の経営です
 また、大分の人達は、関西弁には親近感を感じるとよく言います
ラジオでも広島や山口のラジオ放送もよく聞こえます
大分の歴史散歩という冊子を買いました
その本にも、大分の宇佐神宮が、古代より都(関西)とつながりが深いと書いてありました
大分と関西のつながりの深さを歴史の面でも実感しました

コメント
よく見ていますね
港の考察は、見事ですね
うどんもぜひたべてみたいです
隣の県なのに知らないことが多くてビックリしました
まだまだ、続きがありますよ
御期待ください
No17 佐土原カラノ電話@ by ひょうきんたろ 2003年正月
リーン。俺ヨ、俺
元気ニシチョルヤ?
長ゴウ、顔見ランガ
何年会ウチョランカネ。モウ十年位カネ
ジャッタカネ
ソシテ、アンタ今、ソコデ何シチョット?
ア、ソウヤ。会社員ナ
 今年モ帰レントヤ。ソウヤ。色々アルカイネ

 最近ナ、ドンゲネ
景気ン悪イ話ヤラガ多イカリ
 色々、ヨダキイ事ツヤラ、
ノサン事ツヤラ、シンキナ事ツヤラ、
色々アットジャロ
 ジャガ、ジャガ。イッチャガ、イッチャガ
ソンゲナコ事ツモアルトヨ
 ノサン事ツハ、イッツモカッツモアッタラ、イカンケンドンガヨ
タマニャ良イガネ。ソンゲナ時コソ、帰ッテ来ナイヨ
 焼酎飲ミニヨ

ア、何テ?
 金ガネエテ。ソラモゾナギナ
 暇ガネエテ。ソラボクジャガ
何テ。ソウソウ、ソレガ一番ヨ
 エ、ソウヤ。ソラ良カッタネ
アン。何デンイイガ。一回デン飲ンデヨ
 パアット、イコヤ。パアット
焼酎飲ミジャネエシテ、ゴルフデンイイテ?
 シェカラシ奴チャネ
 ア?、ソッチハ麦焼酎ガ多イテ?
ソラ、焼酎ハ、ヤッパ芋ジャワ
芋ジャネエト、イカンワ。臭ネヨ。今ントハ
コメント
作者から一言
「懐かしく思ってくれる人が一人でもいれば、最高です」
とのことです
なるほど、佐土原弁を文章にするとこうなるのですね。
懐かしいですね。知らない人には、意味が、通じるでしょうか
いずれにしても、微妙なイントネーションは、地元の人でないと味わえないかも
方言は、仲間意識をかもし出す魔法の言葉なのかもしれませんね
まだ、続きが、あります。お楽しみに
No18 佐土原カラノ電話A by ひょうきんたろ 2003年正月
 ソッデン、佐土原ヲヨ、離レテンヨ
佐土原ンコツハ、忘レタライカンヨ
 自分モヨ、東京ニイッ時ャオッタチャワ
 ソウヨ。東京弁デシャベリヨッタツヨ。コレデン
ソン頃ニヨ、何回カアッタッチャガヨ
 寝ル時ヤラ、田ンボン景色ヤラ
一ッ瀬川ン景色ヤラ、佐土原ン景色ガヨ、アアン。何ジャガ
 眼ノ中ニヨ、浮カブコツガ、ヨウアッタツヨ
寝ル時ンヨ。ソウソウ。ノサンワ、是レガ
ジャアワ、ジャアワ。自分モジャッタワー
 ジャカイヨ。タマニャ佐土原ン帰ンナイヨ

 ジャガネ、今年ハ、年男ジャネ
 ダレン様ニヨ。ウン。ソウソウ
ヒンダレン位デ、チョウドイイガ
 ヤル時ハ、魂入テヤラニャイカンワ
佐土原ン人間ジャカイヨ
 ソンデン、年ガ年ジャカイヨ
マ、ボチボチイコヤ。ボチボチ
 ソシタラヨ。帰ッタラ顔出シナイヨ
体ン気イ付ケテヨ。ハアイ
チリーン

   ヒョウキンタロハ、
眠ロウト、眼ヲツブッッテ、思ッタ
 コン電話ン声ン主ハ、誰ジャロカイ
 友達ンゴツアル
ヒョットシタラ、夢ン中デ話シタカモ知レン
 今日モ、夜空ノ星ガ眼ニ浮カブ
誰カガ、澄ミ切ッタ眼デ
 コッチヲ、ジィーット見チョル様ナ
ソンナ佐土原ノ夜空ノ星ヲ
 ソシテ思ッタ
今日ハ佐土原モ正月ジャナ

コメント
夢の中の話だったようですね
私も東京にいたことがあります
この歌と同じように感じたことがあります
はじめて帰郷する時の胸の高鳴りは今もわすれられません
本当にふるさとは、いいですよね
No16 小説 「王の挽歌」 by ひょうきんたろ 02/12/08
大分で、佐土原が出て来くる小説に出会いました
遠藤周作の「王の挽歌」という大友宗麟公を主人公にした歴史小説です
これも島津さんが関係しています
島津さんは、薩摩が大分や北九州に進出するための、前線基地として
、 あるいは薩摩防衛のための楯として、佐土原を確保したようです
薩摩は佐土原を確保した後、実際大分まで攻め入ったそうです
大分の戦国武将である大友宗麟公(キリシタン大名として有名)は、
島津義久公と、宮崎を戦場にして、二度の大きな戦いをしたようです
大友宗麟公は、一度島津を攻め、宮崎北部の大きな川の河原で大敗北をします
(耳川でしたか、小丸川でしたか、忘れました。)
島津に敗北した大友宗麟公は、豊臣秀吉に救いを求めます
秀吉軍と連合し、再度日向に攻め入ります
そして木城、都於郡で大きな戦があったそうです
関ヶ原の戦いの前、秀吉の朝鮮出兵の前です
ちょうどあの池宮彰一郎の歴史小説「島津奔る」のちょっと前のことです
佐土原付近で、戦国時代に豊後と薩摩の力が二度もぶつかりあったことなど
遠藤周作の歴史小説「王の挽歌」も「島津奔る」に劣らず興味深い小説でした

島津義久公が佐土原を支配する以前に、佐土原を支配していた伊東公は、
大友宗麟公を頼って今の大分に逃げています
その伊東公の息子が、天正少年使節としてローマに行った伊東マンショです
その伊東マンショのことも、詳しく書かれています
コメント
すごいですね。歴史は、色んなところで、繋がっているのですね。
勉強になります
木城、都於郡の戦いは、どちらが、勝ったのでしょう
この続編は、あるのでしょうか?期待しましょう
No7 佐土原と歴史A 「喜界島と佐土原」 by ひょうきんたろ 02/05/05
平成14年4月18日(木)南日本新聞によると
喜界島に流された佐土原藩士の子孫らが、同島を訪れ、墓参りをしたそうです
そして、「感無量」と往事をしのび、墓を守り続けた地域の人に、感謝したそうです
小生の記憶では、
御牧赤報(みまきせきほう 「学習館(佐小)の初代長」が佐土原に来てから文教派が強くなったそうです
それに反発した武道派との争いとなり鴫之口騒動が、おこったそうです
1824年武道派は、やぶれ喜界島に 遠島を申し渡されます
そして翌25年に学習館が、設立されます
文化の日には、母に連れられて御牧先生のお墓参りに行ったこともあります
御牧先生のお墓は、愛宕神社の長い階段を登りきったところにある細道を、
右にしばらく歩くと、左手の竹やぶの奥にありました
佐小の上級生は、年間行事として、御牧先生の墓参りをしていたと、
大正生まれの母から、よく聞かされたものでした
喜界島の人によると「政争による遠島人は知識階級で、奄美の教育の先べんをつけた。」そうです
162年目に実現した念願の供養
歴史と伝統ある佐土原ならではの記事ではないでしょうか
コメント
歴史は、途切れることなく流れているのですね。
武道派が、勝っていたら、佐小は、なかったのでしょうか。
また喜界島の歴史も変わっていたかも知れませんね。
この方達もその時代を一生懸命に生きたのでしょうね。
御先祖を敬うのは、良いことですね。私も墓参りに行きましょう。
No6 佐土原と歴史@ 「島津さんと神武さま」 by ひょうきんたろ 02/04/28
島津家は、武力で日向に入り、佐土原の人や、高麗からの人を、支配しました。
同様に、琉球、奄美も武力で獲得し、支配下に置きました。
 今でも鹿児島県人の日向属国意識は、厳然と残っていると感じます。
宮崎からは歴史上の人物が出ていないと、しつこくくり返す人がいました。
残念ながら、宮崎出身は、ポーツマス条約を締結した小村寿太郎くらいでしょうか。
しかし宮崎神宮には神武天皇が祭ってあることを思い出しました。
atu君によると、神武さまが産湯を使ったというところが、現王島にあるそうです。
そこで宮崎出身で一番偉いのは、神武天皇だと答えました
それ以来、ぴったり宮崎の悪口が止まりました
 日本書紀でしょうか、続日本紀でしょうか
それに書いてある神武様は、少人数で日向を立ったようです
(NHKブックス「古代日向の国」日高著)
神武天皇が日向を出る時、大勢の軍隊を連れていたのではないようなのです
神武様は、武力でなく人徳で、統一を成し遂げたと言えるのかもしれません。
 とにかく想像なのでわかりません。
しかし純朴とも言える日向人の気質からは、そんな神武様の話しがもっともらしく聞こえてくるから不思議です。
コメント
うーん。勉強になります。全く知りませんでした。
歴史は、勝った者のために書かれる。と聞いたことが、あります。
立場が、変われば私達も同じ間違いを犯すかも知れませんね。
他山の石にしたいものです。

No1 こっこの思い出    by masa&kazu 02/03/10

小学生の中学年頃でしょうか
友だちと誘い合って、春田の山に「こっこちぎり」 に行っていました
結構高いところに実がなっていました
ひやひやしながら木を登り、赤く熟れた実に手を伸ばし、ちぎっていました
秋でも、虫がいて(そう記憶します)、スズメバチが来たりするとひやひやし
「おーい、はちがきたどー」と叫んだりしたような気がします
とった「こっこ」や「あけび」は、おおきな飼料袋
(飼料袋でなく麻でできた袋だったような気もします)に集めました
みんなで均等割して、それぞれ持って帰った記憶があります
あの細い木を登って、手を伸ばす時など
何か腰のあたりがムズムズしました
その何個かを遠足に持っていっていました
たまにあの場所の近く、仲間原へのぼる道を車で通ります
丘ともいえない小さな林が続く場所
いつか歩いて確かめたいと思います

コメント

自生している「こっこ」や「あけび」は、まだ有るのでしょうか
そんな場所が,みつかれば、すばらしいですね